思考と雑記

描くためにかんがえるひとが書くところ

脱障壁

とあるきっかけから、障害者について自分なりに思うこと、あるいはその認識そのものに対する懐疑について考える機会があったので、単発の記事としてここにしたためておこうと思う。

以下本文。




【脱障壁】


"属性"は、周囲の環境内における関係性によって浮上する性質であり、独立した単体として存在する概念ではない。つまり属性とは、何らかの"差"としての関係性という文脈を通して見出すことができる"フレーミング"された概念である。 

本題である"障害者"というフレーミングされた属性を扱い考察するにあたり、以上の要点を前提としてふまえておくことに加え、以下に記述する生物学的概要が重要であると考える。

生物には、外部環境に適応的な活動をするにあたり、あらゆる環境情報の中から自己の生存に関わる情報を効率的に峻別するために、枠組みとして情報を単位化し読み取る機能が認知のシステムに組み込まれている。これによって、自己の身の置き方を臨機応変に見出した上で最適な活動を行うことができる。

大抵の動物の認知過程に関しては以上の記述で事足りるであろうが、人類に対してはいささか不十分な内容である。

生物が外部環境に適応するときに、すべての個体がそれぞれに置かれる「"自己の状態"を含めた環境」から文脈を見出すというプロセスに依存している。つまり利己的な文脈のなかで環境情報を選び取っているのである。そうした中で人類は、外部環境という大きな枠組みの中に"別個体の置かれる環境を想像すること"を付加するに至り、環境認識の幅を拡張する過程で"社会性"を発達させた。

別個体、すなわち"他者"の置かれる状況を他者の立場で想像し、あたかも自分自身のことのように認識することで相互の利害関係を見出し、より知能的に社会性を発達させていく中で、利害関係を超越した関係性を構築するために、言語的・非言語的意思疎通といった高度なコミュニケーション能力を獲得してきた。他者という"フレーム"の境界を超越する、想像性の発露である。


前置きが長くなった。 以上の概要をふまえて現在の障害者に対する認識を読み解けば、明らかになってくる点が多く現れる。


「障害」は、何かができる、できないといった要因であるとする以前に、多数派と比較した時にみられる差異のことをいうのであり、負のイメージが即座に植え付けられる概念ではそもそもない。にもかかわらず、「障害を抱えていること」を指し"かわいそう"と形容する根拠は、障害者の置かれる環境が自身の置かれる環境とは「違う"のであろう"」という「差」を意識した憶測の中、とりわけ「自分にはできて、その人にはできない」という事実に「不自由さ」を想起する点にある。例えば、目が見えなければそれに伴った活動が生活基準になるし、目が見える人にはそれに伴った生活基準が必然的に決定する。ゆえに、他個体間で絶対的に断絶された他者である"目が見える自分自身"は、"目が見えない環境での生活を体験することができない"。

本来的に、自己の生活基準に対する認識からしか他者のそれとの"差"を見出せず、自己を基準にしてのみ考察することから逃れることはできない。目隠しをして白杖を持ち、目が見えない人の生活を疑似体験するといった場合でさえ、自分は普段から目が見えるのだという揺るぎない事実が心理の根底にある限りにおいて、目が見えない人の生活について本当の意味での理解に届くことはない。

環境適応能力を有する我々人類は、各々の状況から環境に適応する糸口を見出そうとする認知過程に依存しながら日常の活動を営んでいる。障害者当人は常に固有の環境内で適応の最中にあり、そうでない者の環境への適応とは様子が異なるし、互いに体験を共有することは実質において叶うことはない。

バリアフリー化により、障害者に易しい外部環境を整え、世間がそれを了解するというレベルでは、本当の意味での障壁を取り除くことはできない。おそらく、本当の意味での障壁は障害そのものにあるのではなく、これまでに述べてきた"差"に対する我々の認識、そしてその"フレーミング"のあり方にある。ゆえに、外部環境をバリアフリーに設計することに加え、我々の認識そのものにおいてもバリアフリーな捉え方が求められる。いわばバリアフリーを"脱構築"的に捉える姿勢である。施設設計や環境整備など、具体的かつ実用的なものに対する脱構築化は困難であるが、思考上、認識上における脱構築的な試みが世間一般に行われることは事実上可能であり、その取り組みこそが重要であると考える。

いわゆる"いい話"レベルの議論で満足していては、障害者に対して真に理解を深めることはできない。障害者というフレーミングされた概念を扱いながらも、同時にそのフレーミングから脱するニュアンスを見つめること、そこにこそ本当の意味での思いやりが表れてくるはずなのである。